2007年10月5日金曜日

僕なりの解答。

YMOを聞いて、

「コンピューターゲームという娯楽、産業の流行、先端を、音楽という、しかもある種の主張、芸術性をもった音楽のコンテクストに取り込む、という点において、すごい!!」

20世紀少年を読んで、

「万博を頂点とした、近代社会の成長神話、モダニズムが崩れた後の社会としての日本において、その虚像の未来はどう歪んだのか?そこにすべりこませた、子供の社会の仕組みは果たしてどういう意味を持つのか?」

なんて考えることは、

疲れますし、50%の確立で、つまらない。


しかし、そこに意味を与えようとするならば、(あなたが好きならば)

そういった「読み手」は、「視座を与える」において、素晴らしい。

バルトが、ファッションに、一つの見方、ストーリーを与えたように。


表参道を飾る、必要以上に、服を並べるのにあんなに広い場所がいるかどうかという意味での必要、以上に華美な建築、巨大なポスター。

ボードリヤールが「意味を消費する社会」といった、まさにそれが、こんなに美しく、その美しさのあまり醜く、反転してファンタスティックに現在している、とーきょー。

涙が出る。


その涙は、現在進行形のカオスである世界と、その過去、現在、ときには未来をまとめてパッケージする思想との、大変素敵なマリアージュ以外の何に依るものでもない!!


そう思うのですね。思うのよ。


テクスト論は、すべてを認める。が、、とても攻撃的です。

そこでは、堅牢な根拠、論拠の絶対値が問われるから。

そして、一つのところに留まった、留まろうとしたそのときに、それはもう正義ではないから。

常にその構築を「脱する」必要を迫られるから。

それが、卑屈な文学者に職業と意味を与え、偉大な精神にさらなる偉業を迫る。


それがね、僕たち文系の領分であり、大義であり。


疲れる人間よね。


最近、つくづく自分が文学的ではないなぁと、思います。

それは論理とか理屈を出発したものが、僕の感動を誘うから。

まぁ、いいんだけど。自分のこと、嫌いじゃないし。

でもね、自己嫌悪もあるのよ。

それくらいナイーブだって、いうふうに、

少し、言ってみるのを、許してください。


だれかがかなり適切な、「blog論」を展開したので、

僕も、「無意味な内面の吐露」を、やってみました。    

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