2007年7月3日火曜日

栗=マロン=まろん=「間」論

セリフとセリフ、

動きと動き、

セリフと動き、

演技と演技の、「間」について考える。


僕はよく、「間」が長い、と言われる。

それは褒め言葉のときもあるし、批評のときもある。

僕はそれをわざとやってるんじゃなくて、

間が長い演技をしよう、としてるわけではなくて、

「一つの演技が、次の演技を引き起こす」のを待ってるんだ。

相手の行動が、僕の次のセリフを引き起こすときの、自分の中での心的な過程を、そのときそのとき再現して、

「よし、ここで言える!」と思ったタイミングで、演技をする。


ここまでの文章を読んで、

「なんか、作ってる感じだなぁ。演技ってもっと自然なものなんじゃないの?」

って思う人もいるかもしれないけれど、

少なくとも今の僕は、

演技するときは、かなり客観的なもう一人の自分が、常に舞台全体を監視している。

なり切っている自分と、傍から見てる自分。

二人が一緒にいて、初めて「役者である僕」が舞台で動くんだ。


話がずれたけれど、

僕は、演技が演技を引き起こす適切な過程を踏んだ時間が、適切な「間」だと思う。

それより早いと、わざとらしいし、セリフのためのセリフになるし、

それより遅いと、たいくつで、間延びする舞台になる。

それはかなりの真剣勝負で、一瞬一瞬も見逃せないから、すごく疲れる。

これをさぼると、ダメなんだ。

これを一つの舞台でやりきれたら、最高なんだ。


だから、僕は、自分が完璧に適切なタイミングで、「間」を使えたなら、

見終わった人に、「間が長いよ〜」と言われても、胸を張れる。

ただ、

「飽きたよ〜」と言われたら、

お客さん商売ですから、頭を抱えるんだな〜。

だから、「よし、じゃあどうしようか」ということになって、

「間」の考え方、心的過程の再検討をして、

演劇人、役者としてのレベルがあがるんだ、と思う。

自分の「間」は変えずにね。


まぁ、舞台に立ってるときは、

ただただ、「暑い!」しかないんだけどね(笑)    

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