2007年7月26日木曜日

感性に属する知性について。

非論理的(かもしれない)ことを言う。

僕は、この世界に、ある種の感性に属する知性があると、ただ直感する。

(一人称が変わるのは、毎度のことだ。許してほしい)

私のなかの論理的、そして抽象的な思考の内省において、どうやらそれはあるだろうと、考えずにはいられないのだ。

感性に属する知性、という呼称をあまりに酷いかもしれない。

その呼称はまったく完璧とは言えないだろう。

僕は、知的なもの、その事象の背後に「知的な働き」が見えるものが、好きだ。

AがBを生み、そのBと別の命題Cとの関連において、Dが生まれる。

それは必ずしも論理的であるということと同一ではないが、

私はそういった「具体的思考による意味付け」を、何より好み、私の趣味趣向が、馬鹿げたほど「散らばる」のは、一つにはこの性向によるものだろうと思う。

だから私は、「純粋なヴィジュアル」によって、心から感動することがない。

いや、それも正確ではないな。感動はするんだ。

何だろうな。結局、一番好きなもの、ではない、ということだ。

そうそう。

「一番好きな○○は?」と聞かれたときに、僕は、どうも、そういうものを取り上げないということだ。

感性的な知性っていうのは、そういう「純粋なヴィジュアル」「純粋形式の芸術」においての思考のことです。

最高の音楽家は、知的ですが、その知性は法学者のそれとは異なります。

それは「プリミティブな感情」とは違います。

そう、思考形態が違うのです。

どちらも論理的です。

どちらも科学的。

ただ、思考の形態が形式が、違うのです。

何とも上手く言えません。

ただ言いたかったのは、

僕が、そういう世界の思考方法を持たず、

それが悲しくもあるのですが、逆に反対の世界において、

しっかりやっていこうというオプティミズムを感じた。

それだけでした。

でも、こういう考え方は好きじゃないんです。

全ての思考は、ある一つの出発から始まると、漠然と信じているんです。

そうでないと、交流の難しさが表れるでしょう?

でも、どうやらある「みたいに」、感じる。

これが成長ですか?

「決めていかなければ」、人は生きていけませんか?

生きづらいのかなぁ。

まぁ、わかりませんが。

あ、全然暗い気持ちにはなってません。

ただ、今まで否定してきたものが、漠然とした実感によって内側から破られる時の、

あの何とも言えない、納得のいかない感じと、それを認めたい、みとめなくちゃいけない気持ち、

そして不思議な快感を、

少し感じているだけです。

結局、みんながみんなオペラを聞くわけではないし、理解できるわけでもない。

性向と、論理的知性は、どのように絡んでいるんでしょうね。

「わかるけれど、嫌い」

結局、これが最後の解答なんでしょうか。

でも、

「わかんないけど、好き」

の世界が、あるんだと思うんですよ。

頭が悪いとか、そういう次元じゃなくて。

あぁ、もう、このお話、止めます。

未熟でした。

議論はしません。

ちゃお    

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