非論理的(かもしれない)ことを言う。
僕は、この世界に、ある種の感性に属する知性があると、ただ直感する。
(一人称が変わるのは、毎度のことだ。許してほしい)
私のなかの論理的、そして抽象的な思考の内省において、どうやらそれはあるだろうと、考えずにはいられないのだ。
感性に属する知性、という呼称をあまりに酷いかもしれない。
その呼称はまったく完璧とは言えないだろう。
僕は、知的なもの、その事象の背後に「知的な働き」が見えるものが、好きだ。
AがBを生み、そのBと別の命題Cとの関連において、Dが生まれる。
それは必ずしも論理的であるということと同一ではないが、
私はそういった「具体的思考による意味付け」を、何より好み、私の趣味趣向が、馬鹿げたほど「散らばる」のは、一つにはこの性向によるものだろうと思う。
だから私は、「純粋なヴィジュアル」によって、心から感動することがない。
いや、それも正確ではないな。感動はするんだ。
何だろうな。結局、一番好きなもの、ではない、ということだ。
そうそう。
「一番好きな○○は?」と聞かれたときに、僕は、どうも、そういうものを取り上げないということだ。
感性的な知性っていうのは、そういう「純粋なヴィジュアル」「純粋形式の芸術」においての思考のことです。
最高の音楽家は、知的ですが、その知性は法学者のそれとは異なります。
それは「プリミティブな感情」とは違います。
そう、思考形態が違うのです。
どちらも論理的です。
どちらも科学的。
ただ、思考の形態が形式が、違うのです。
何とも上手く言えません。
ただ言いたかったのは、
僕が、そういう世界の思考方法を持たず、
それが悲しくもあるのですが、逆に反対の世界において、
しっかりやっていこうというオプティミズムを感じた。
それだけでした。
でも、こういう考え方は好きじゃないんです。
全ての思考は、ある一つの出発から始まると、漠然と信じているんです。
そうでないと、交流の難しさが表れるでしょう?
でも、どうやらある「みたいに」、感じる。
これが成長ですか?
「決めていかなければ」、人は生きていけませんか?
生きづらいのかなぁ。
まぁ、わかりませんが。
あ、全然暗い気持ちにはなってません。
ただ、今まで否定してきたものが、漠然とした実感によって内側から破られる時の、
あの何とも言えない、納得のいかない感じと、それを認めたい、みとめなくちゃいけない気持ち、
そして不思議な快感を、
少し感じているだけです。
結局、みんながみんなオペラを聞くわけではないし、理解できるわけでもない。
性向と、論理的知性は、どのように絡んでいるんでしょうね。
「わかるけれど、嫌い」
結局、これが最後の解答なんでしょうか。
でも、
「わかんないけど、好き」
の世界が、あるんだと思うんですよ。
頭が悪いとか、そういう次元じゃなくて。
あぁ、もう、このお話、止めます。
未熟でした。
議論はしません。
ちゃお
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