不定期に訪れる、極度な自己内省と、自分による自分への希望と批評とヒロイニズムに彩られた、あなたにとって(この場合のあなたとは、こちらでは峻別できません)あまり読んで有益ということはないだろうと思われる、日記です。
Blogには書きたいことをかけばいいという主張は、私としては賛成なので、おおかたこの主張に準じて書いているわけですけれど、テレビにも、「深夜番組」という呼称による視聴者へのwarningがあることですから、文章の内容なるものは、あらかじめ宣言されていなければいけないでしょう。そのために書いています。
このBlogを書く初期衝動は、ここ最近の精神活動
ーレポートなどの時期でもありますから、それにともない読書も多くなっているのです。だから一日の大半は、読書かyou tubeとなります。もっとも私がyou tubeを見るのは、かなり「たまに」なことで、見るのはもっぱらラーメンスのコントばあかりです。なぜ他のは見ないのか。という理由はさしてありませんが、あまり雑多なものの中をクローリングするというのは、そんなに好きじゃないのでしょうね。性向的に。それでも、カオス的な現象は好きなのですから不思議です。ー
の蓄積によるその鬱々としたもの発奮もあるでしょうが、直接のきっかけは何のことはなく、少しBlogのアクセスが、ほんの少し落ちていたというだけのことです。何を書いても自由だ、などと宣言しておきながら、何とも卑小な精神です。
「何を書いても自由だ、読みたくなければ読まなければいい、でも読んでくれるなら、どうぞ長居していらして」というのに絡めてのお話をすると、僕は、けっこう誰とでも話ができます(まぁ自分と相手の知性の範囲がかろうじてでも共有される世界ーそれは話題ではなく、姿勢の問題ですーで、ですが)。お酒でも入っていようものなら、僕の生い立ちであろうが性生活の話であろうが、何でも簡単にぺらぺらと話します。それはきっと、僕が他人を信用しない人間だからではないでしょうか。僕はとても人間讃歌な人間ですし(全くレトリックが下手ですよね)、脳みそ論者ですから「脳みそをちゃんと使えば、オーバーヒートさせれば、努力による不可能なんて、世界のほんの少しの領域にしか存在しない」とも考えています。それは人間は本来的に自由なんですから、あなたは何ものにもなれる可能性に満ちているのですから。しかし、主体同士のコミュニケーションは、マルクスが「交通」とも言ったように、建設性とともに絶望と不可能性に満ちています。もちろん不可能を可能にする希望は捨てないのですが、主体が他の主体によって、意識的に完全にコントロールされるという現象は様々な理由から信じません。だから、基本的に、この「表象の戯れ」でしかない世界において、僕の意図をあなたがそのままに取り込み、僕と同じように「感じる」ことはほぼ無理だと考える僕には、「テクスト」と「読み」によって浮遊し続けるこの世界の中、他人を本来的に信用するなどは、僕には出来ない芸当です。
けれども、愛しているのです。全ての人を。だから僕は、自分の全存在をあなたの前にさらけ出します。そこであなたと交わるか否かを、極端な羞恥とそれを超えた僕のメタな価値観のもと、挑戦しているのです。自分に対して。
僕は、自分が傷つかないために、自分の中の二つの世界、「テクスト」ー「読み」世界観と、実存主義的希望論の折衷として、あなたの前で、べろべろに酔っぱらうのです。そんな僕の、精神分析的逃避をー人間の根本は、最初に憎悪、そして愛だそうですー許して下さい。許さなくてもいいです。
「あぁ、そうなのね」
と一言、つぶやいてください。
少し、将来についてのぼんやりとした不安が、頭に想起しました。今は主にフロイトと彼の思想についてのー思想、なんて言葉を使うと、それこそフロイト自身に怒られそうですねーものをズダズダ読んでいます。一方では、マンガ表現学についてのテキストをぱらぱら。こういう風な乱読は非常に楽しく、自分が何ものであるかわからなくなっていくこの混乱はある種のサディスティックなマゾヒズムを引き起こしてくれるのですけれど、不安は不安ですから、現実のとっても世俗な関心ごととからめて今の自分に目をやると、本当に恥ずかしいくらい月並みなことを言うのですが、自分の将来についての、ヴィジョンの不確定におののいてしまうのです。
ねぇ、僕は、何だと思いますか?
あなたに僕は、どんな人間だと映っていますか?
僕は評価というものを気にします。
本当に恥ずかしいことを書きましょう。
僕は、昔から、評価されない、人物評というのを書かれない人間なのです。
それについて僕はどう思うかというと、「君が判断できる範囲をはるかに超えた知性なんだよ〜」とか、「わけのわからない、くだらないやつなのかな〜」とか、思うのです。あぁ、恥ずかしい。
僕は、自己内省でやってきました。もちろん周りにはたくさんの素晴らしい連中が(3体の人生サンプルが)いるんですが。
僕らの一つの有機体とも言えるような関係は、ご理解する人だけがご理解ください。
おそらく一部の人と、僕たちでしか不可能でしょうが。
それでも、そういうもののせいにして、自分の優柔不断さ、情熱のなさ、甘え癖、と様々なものの結果として僕は、「遊び人」となってしまいました。それも全く遊び方がヘタクソな。
私は、何かを作り出せばいいのか、マネージメントすればいいのか、口うるさくしてれば勝手に私は保持されるのか、それがわかりません。
あぁ恥ずかしことを言いました。
恥ずかしいと思うということは、あなたを意識してるのですから、まだ私は、先に偉そうに言ったくせには、周囲を気にして、愛しているのですかね。
なんてくだらないやつなんでしょう、とここで言うのは簡単です。自分をなじるのは、全く自分を守るためというのと、ナルシシズムでしかないのです。だから、ひ弱な僕の精神の、それでも恥じる最後のジハードとして、自分の侮蔑による恐怖の逃避ということだけは、ここではこらえて我慢します。
これは、とても政治的な文章だとも言えますし、私としてはそうでないとも言えます。
つまるところは、ただあなたに優しくされたい、愛されたいと、それだけなのかもしれません。
無意識のメタな「わたし」は、そうやって私を監視しているのですが、その「わたし」ももう崩壊しているようです。
自分の抑圧のプロミネンスを全く抑えることができず、かといって芸術に昇華させることもできずに、こうやって告解することで、どうやらそのメタ性を保っているようです。
この前、人と「日本人の男は〜」とか「SだのMだのうるさい〜」という話をしました。
その通りだと思います。思いますが、その中で自分が独善的にならないように努めなくてはならないな、と思いました。
意見を下す時は、自分のなかの本来的な性向と、事象の分析による一般化可能なことがらの抽出というのを分けなくてはいけません。
そういう態度が正しいのかは別として、外に開かれない議論というのは、ただの感想でしかなく、対話可能性がありませんから。
こんな文章を書いて、
いもせず、ありもしない「あなた」にすがることで、その甘えでもって生きている、超自我「わたし」の、くだらない政治駆け引きを、
読んでくれて、ありがとう。
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