2007年6月20日水曜日

表現の自由について、その保障と警句。+ 私の5年間。

あなたは、何を言うことも可能です。

私はそれを真実ではない、などとは決して言いません。

真実なんていう実体はないですし、テクスト(=実体)はどう読まれてもいいのですから。


しかし、では私は、どうやってあなたを否定できるのか?

それは、乗り越えることのみにおいて可能と言えるでしょう。

あなたの意見をAとして、私がそのAについて考えた上に、意見Bを打ち立てたとすれば、

それは否定を正当化できるものですね。

仮に私がAを想定していなかったとしても、AをBの名の下に否定できれば、十分に上記を満たすはずです。

しかし、ゴールはありません。

私は決してBに甘んずることなく、それを乗り越える考えCを新たに創出すべく、そうして永遠の思考をしなくてはいけないのですから。

常にCを疑い、Dを模索し、そこからDを疑い、Eを模索する・・・・そして、Zになり。しかし、その先は無限のインフィニティ。

この「打ち立て」と「乗り越え」の無限ループ(それは時に地獄です)こそが、唯一、表現の自由を保障し、またその責任を課すものであり、その100%の自由に罰を与えうるものなのであります。


「では、僕たちはただ黙ることしかできないじゃないか!?」

とは、なりません。

なぜなら私たちは、生きていくことの中で常に「選択と決断を迫られる主体」であるからです。

その時々の事象に対して、常に私たちは決断をし、語らなければならない。

語らないということも、語ることなのです。

いかに「語れないことを語るか」「語らないことを語るか」という問題なのです。

誰一人としてこの世界から抜け出せず、また、全ての一人がこの世界の要素なのだとしたら、

私たちは絶対に語ることのできない中で、しかし絶対に語り続けなければなりません。

そして絶対に出口は見いだせない中で、しかし絶対に考え続けなければならないのです。

それでも、そうして語り続けることによって、それがどれだけちっぽけかはわかりませんが、すくなくともその時々に自分が最善だと考えた世界が近づいて来ていると発見できたら、それはとても素晴らしい生き方を体現できているのですよ。

常に、構築されたもの(世界中の意見、知識の体系)に対して乗り越えようとする姿勢と覚悟の下に、

そこから自分の行う決断と発話の全ての責任と、そうして出来上がる世界の実体を、自ら一身に引き受け、

ときにはその衝撃によって瀕死となっても、自分の脳みそをデッドヒートで働かせ続け、

また新たな乗り越えを画策し、実行する。

そうして自分自身を、世界に体現し続ける。


そして、また振り出しに戻る。


しかし、そこにはすくなくとも希望があり、

私は最前線で奮闘しているという実感も持つ。


この、「脱-構築」と「アンガージュマン」。

これが15才の僕が、二十歳になって見つけた、ひとつの帰結であり、過ぎ去った通過点に、今、なりました。    

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

どもども、毎回何気に更新を楽しみにしてるまさです(笑)

表現の自由というのが、政治的な権利のことを指しているのかそれ以上のことをさしているのかがよく分からないので何ともいえないけれども、ただ一つだけいえるのは、もしも君がそういった実存主義をただの言葉遊び(=『僕おたくで~す!ハルヒ萌え~!』みたいなのと同じ単なる薄っぺらな自己主張の道具として哲学やら思想やらを振り回すこと)ではなく本当に自分の血液として認識しているのならば、これからの時代は君にとってかなり生きにくい時代だと思う。

僕は君が後者であることを願うし、表現にせよ何にせよ、君がなにか素敵な「実践」をしてくれることを楽しみにしてるよ!

mr.custard さんのコメント...

つらいこと言うな(笑)

表現の自由っていうのは、少し落としてみただけで、

もっと根源的なatitudeについての意見です。

これは(ここにある言葉は)それこそ僕が向かい合ってきた言葉たちやから、

全人類的なatitudeやと思うし、そうあるべきだと思うよ。

実践かぁ。日々実践です、と言いたいし、そうあるべきなんやけど、出来てないよね(笑)

まぁでも、僕の根本的な姿勢であることは間違いないし、僕の言葉とか、言葉の表現は全てここに根ざしてるよ。

毎度どうも!☆